「シュレディンガーのねこ」
吾輩は猫である。名前はまだ無いとしよう。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは少年という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。
この少年というのは常々用もなく我々を追い掛け回し無用な恐怖を煽る厄介な生き物であるという話である。しかしその当時はなんという考もなかったから別段恐ろしいとも思わなかった。ただその掌に抱き上げられるその時にたくさんおったような兄弟の気配はスンと消え肝心の母親すらどこか更に暗い所へ潜っていったようでかすかにニャアと声が吾輩に向けられたようだったと思う。
今でも確証がないがそれが唯一の野良と呼べる頃の記憶であったためそうであったと思うようにしているのだ。
この少年の胸元で朧気ながらもこの体験を記憶しておこうと懸命に意識するもやがてむやみに眼が廻り始めた。胸が悪くなる。到底助からないと思っているとどさりと音がして眼から火が出た。
やがて眼が覚めるとまず先にその無暗に眼を刺すような明るさだけがあった。
はてな何でも容子がおかしいとのそのそ這い出して見るとどうやらここは土間に置かれた籠の中のようだ。
どうも籠の中には毛布が敷き詰められていて非常に苦しい。これはどういう状況だろうかと顔を覗かせながら思案を巡らせるが籠のすぐ近くに牛乳を湛えた水入れがあるのを見てもしやと思う。
縁は不思議なものでもしあの少年の気まぐれがなかったなら吾輩はついに路傍に餓死したかも知れんのである。
もしここで吾輩は飼い猫と成り得るのであればありがたく住まわせてもらうべきであろう。どうしても我等猫族の生き方として褒められた自然なものではないのかもしれない。
ただ吾輩が生きるため生かしてくれた少年に報いるため家族的生活をする事に決めたのだ。
吾輩はその日をどうにかこうにか送るため少年の家に住まう飼い猫となった。
食住には困らず日々平穏に暮らすことができている。
ただ無為に過ごす毎日だがただ一つ不満があるとすれば吾輩の名前だけであろう。
我が家族となっている人間は吾輩を「ミケ」と名付けた。どうも吾輩の毛並みの柄から付けたらしい。非常に安易だがそこに不満があるわけではない。ただ名を呼ばれる度母親の声を思い出すのだ。ニャアと鳴いたあの声を。
もしかすればあれは吾輩に名前をくれたのではないだろうか。ただの一疋はぐれ全く違う生活になるのだろう自らの息子にせめてもの選別として名前をくれたのではと考えるのだ。そう考えるとあのニャアは吾輩の名前としてとても馴染むようだった。
全く確証などある訳でも無いが何しろ確認する手立ても無いのだ。好きな様にしたっていいだろう。
ならばどれだけ「ミケ」などと呼ばれても吾輩は自らをニャアと称する事に決めよう。
これからは「ミケ」と呼ばれたら「吾輩はニャアである。」と大きく胸を張って訂正する事としよう。