「犬」を見ておりました。
私の家庭には一匹の犬がおります。
私が十一か十二の歳の頃に父の友人から譲り受けた犬でそう考えるともう九つにもなったのでしょうか。
尾の元より口の先まででおよそ二尺、毛がやや長く垂れている事もあり四足は短く見え所謂中型犬。
全身はほぼ黒い毛で被われており、胸元に白くまるで月輪熊のような印しもあることからよく「熊のやうだ。通報されぬよう頭上に犬だと看板を掲げておけ」などと慕われているのかからかわれているのか判らぬ始末でございます。
さて、
本日の夕暮れでございますが、今日も今日とて畑仕事に従事し家に帰ってきた私は「犬の散歩をせねばならぬ。」とし、部屋に戻りたい気持ちをそっといなしつつ、人が近づくやいなや腹を晒し待ち構えている我が愛犬の元へ歩み寄るのです。
雌でありながらどうしようもなく涎を垂らし跳び跳ねる彼女を尻目に鎖を握り解き放つと、その全身の躍動を支える役目が柱から私に移るのでした。毎度のことではあるのですが彼女のあっちへ跳ねるこっちへ跳ねる力は体格に合わぬような強さでありややもすると手を放してしまいそうな勢いでございました。
そのまま彼女を引き連れ、というよりか引き連られるようにしながらも歩き、我が家の牛小屋へ辿り着きました。ここには半ば愛玩用と化した子牛が一頭おりまして、犬よりすると気になるにおいなのでありましょうか、彼女はやはりここで跳び跳ねるのであります。
しかし、いつもどおりの道筋を辿る最中、本日はいつもと些か様子が違っておりました。
なにやら彼女がその前足で水の吹き出る穴を押さえて回るが如く地を駆けずりだしました。
私は当初、飛蝗か蛙かそのような虫などが跳ねているのだろうと思いまして、どれ、如何様か?とばかりに彼女の視線の先を追ったのです。
しかし予測は外れ、そこに追われておりましたのは一羽の雀でございました。
「ほう、なんとも珍しいものだ。足で走る雀とは。」
もちろんただの状態の雀ではこうはなりますまい。恐らく羽根辺りに傷を負っているのでございましょう。
生来人の元で悠々と暮らしてきたこの犬がかように他の生物を獲物として追う姿は久しく見ておりませんでした。
だからなどとは言いませんが私もしては特に介入してどちらかの味方をするでもないことだと思い眺めておりましたところ、十五秒から二十秒ほど追いつ追われつの末に犬がかの雀を口に放り込むこととなったのです。
最後の一鳴きも無いままに口元についた一枚の羽しか見えなくなりました雀の前に私は「こいつはゆうげを残すこととなるのだろうか?」などと思いを馳せておりました。
久方ぶりに狩猟本能なるものを満たしたであろう彼女は幾分か歩いた辺りでその足を止め寝そべるのでした。
そういえば先ほどの雀を飲み込んだ様子はないな。と私が考えると同時に雀の亡骸を吐き出します。
口の中で涎にまみれながら幾数回か噛まれたのであろうその亡骸は羽根がむしられたようで生前と比べ驚くほど細くなっているのでした。
犬が満足そうに何度も噛みながらまた吐き出し続けるので、これが済むまで動こうとはしないだろうと判断し私も付き合うことといたしました。
しかし見るほど可食部の少なそうな風体でありました。とはいえども一匹の動物なのです。栄養素で見れば良いものなのだろうなと思います。
左様なことを思いつつも彼女は噛む、吐き出すを繰り返し続けております。五度目の咀嚼の際だったと思います。何やら「ぱきっ、こきっ」といった軽快な音を出し始めました。
どうやら表面の肉を削ぎ終わったようでして骨を砕いているのでした。
私も鶏の肉を頂く際に骨も食べる癖があるのですが、空を飛ぶため身体を軽くつくっている鳥の骨というのは砕くと鋭く尖るのです。
私は彼女の喉を少しばかり心配しました。
やがてぱきぱきと鳴っていた音が次第にじゃりじゃりとした細かい音に変わり、同時に雀の形であったそれは赤と桃色の肉に変わっておりました。
その肉塊と呼ぶには小さな肉を観察してみるとだんだんと臓物がまろびでてくるのが判ります。小さな雀にそれなりの部位の臓物が詰まっているものだと感心していましたがやがて一番大きな臓物に気づきました。
大きく丸い形をとっていたそれは、腸と繋がっておりましたので、きっと胃であったのでしょう。
そういえば牛小屋の籾殻置場から出てきていたな。と思い起こしその中には籾が詰まっているのだろうと想像します。
しかしその胃腸ですがなんとも食べづらそうだなと見てとれるのでして、何度も吐き出しますが一向に形が変わりません。やがて噛むのを諦めたのか舌で嘗めとり呑んだようでした。
羽根も残さず雀を食べていた彼女ですが最後に食べた箇所というのが本当に小さな臓物でありました。
寸法にしてさくらんぼの種ほどでありましょうか。胸だったと思われる肉片から出てきたのでもしやこれが心臓ではないかなどと感じました。
何故にそれが最後だったのでしょうか。彼女は最後に転がったそれを嘗めとり、一息つくと立ち上り散歩の再開となりました。
しかし私の目には嘗められる直前、微かに小さく血を吐き出したその肉が頭から離れなかったのでありました………。